バジリオ鈴木勁介師 説教(要旨)
2017年4月15日(土) 復活徹夜祭
イエス様の死と復活の出来事を、どこかの誰かの死と受け止める人がいるでしょう。しかし、わたしたちは、神様がわたしたちを救ってくださる一番大きなしるし、そのようにこの出来事の意味を受け止めています。出来事の意味が分かるかどうかは、受け取る人によりますが、わたしたちも、それほど分かっていません。わたしたちの想像、理解の範囲が限られているからです。神様は、わたしたちが思う以上の方と思っていなければ、自分の狭い受け止め方になる危険があります。
さて、イエス様は復活され、弟子たちにガリラヤで会おうと言われます。どうしてガリラヤなのでしょう。ガリラヤに、そこに、わたしたちがイエス様の復活、神様の救いを受け止める大切な手がかりがあるように思います。ガリラヤとは、弟子たちが生前のイエス様に出会い、お言葉を聴いたところです。そこで会おうということは、復活を信じるためにガリラヤが手がかりになるということです。人生の歩みの中で、神様の働きを感じたときや場所が誰にもあるものです。きょう、洗礼を受ける方々も、何となく神様を信じるようになったという出来事があったと思います。そのときに神様との関わりが生まれていたわけです。みなさんにもイエス様、神様との出会いが、なんとなくであってもあるものです。このことは、神様の力を信じる大切な手がかりになるでしょう。
これからの信仰生活の中で心が折れるとき、迷うときがあるでしょう。そうしたとき、神様とどこかで出会い、あのときにわたしは信じるようになった、その手がかりを大切にして歩んでいただきたいと思います。
ラファエル梅村昌弘司教 説教(要旨)
2017年4月16日(日) 復活の主日
昨夜のミサで、鈴木神父様が、なぜガリラヤなのかと話されました。きょうは、わたしもその話を続けようと思います。きょうの朗読の中に「あなたがたは、このことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣(の)べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。」(使10・34a)というペトロの言葉がありました。イエス様による救いの出来事は、ガリラヤから始まったということです。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる。」(マルコ16:7)と婦人たちは神の使いから告げられました。イエス自身もまたおっしゃいます。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしと会うことになる。」(マタイ28:10)ガリラヤ、そこは弟子たちとイエス様に従った人々が生活していた場です。その彼らの生活のただなかに、復活されたイエス様がおられる、そう告げられたのです。また、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここ(墓)にはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5ー6)とも告げられています。今日でも、わたしたちの生活の場に復活されたイエス様がいると告げられていると思います。
きょう読まれた福音に登場するマグダラのマリア、シモン・ペトロ、イエスに愛された弟子ヨハネの3人は、生活の場としていたガリラヤでイエス様に出会いました。マグラダのマリアは、肩身が狭い思いで生きているときにイエス様と出会いました。シモン・ペトロは、使徒たちの頭(リーダー)とされましたが、受難の時にイエス様を裏切り、そのことが重くのしかかっていたことでしょう。愛された弟子ヨハネと兄弟のヤコブはイエス様が栄光を受けられるとき、わたしたちの一人を右に、もう一人を左に座らせてくださいと申し出たので、他の弟子たちは大騒ぎでした。彼らは、それぞれの形でイエス様と出会い、イエス様を通して救いを得たのです。彼らにとって、復活されたイエス様との出会いもさまざまであり、そのそれぞれの体験を人々に語ったと思います。わたしたちも復活されたイエス様に出会い、この方こそと決心し、主に従う道を選んだのですから、その出会いの体験を人々に語って行かなければなりません。ぜひ、みなさんが体験された復活されたイエス様との出会いを伝えてください。一人でも多くの人が、救い主イエス・キリストを通して復活の命に与ることができるように、父である神様も心から望んでおられると思います。
教会報やまて5月号掲載