主の御復活おめでとうございます。

2020年4月12日復活の主日ミサ
司式 ラファエル梅村昌弘司教 説教要旨

新型コロナウイルス感染症拡大のなかでの聖週間でした。本来ミサは共同体でささげられるべきではありますが、緊急事態宣言が発せられてからは、ここ山手の司教座聖堂でも、司祭のみでの会衆不在のミサ典礼がささげられています。寂しい限りではありますが、致し方ありません。今回の感染症の恐ろしくて厄介なところは、「自分が感染しているか否かは定かではない、明らかではない場合がある」と、いうことです。「『自分は大丈』という過信に惑わされて、実際には他人に多大な迷惑をかけている場合も少なくない」、ということです(自戒をこめて言うと、司祭に多いかもしれません)。ですから、専門家の方は「自分が感染していると考えて行動してください」という警鐘を鳴らしておられます。他人を思いやることを大切にして生きるキリスト者には、特に望まれる姿勢であるということができるでしょう。
未曾有の大災害と言われた東日本大震災を経験して、多くの人が普段見過ごしていた大切なものを学んだと思います。今回の新型コロナウイルス感染症拡大においても同じ事がいえるかなと思います。東日本大震災の時には、命の大切さ、命の尊厳というものが改めて見直されました。自らの命だけではなく、互いの命を愛おしむことの大切さと素晴らしさを改めて思い知らされました。そして、自分の命を含め互いの命を大切にするためには、互いの「絆」を深めることが大切だということも改めて気づかされました。人間関係の希薄さが指摘され、いつしか日本社会も、「無縁社会」、「孤独の国」と呼ばれるような社会になっていました。一時、高齢者の孤独死が社会問題となりましたが、それがまたいつしか「孤立死」として、世間を騒がせるようにもなりました。当時は年間3万人を超えていた自死(自殺)も、つまるところは、孤独死であり孤立死のひとつだったと言えるかもしれません。
今また新型コロナウイルス感染症拡大を前に、感染を広げないために、さまざま取り組みが言われています。「Social Distanceを堅持してください」、初めて聞く言葉でしたが、一方で、「とにもかくにも自宅にいてください」という呼びかけもあります。感染防止のもっとも効果のある手段は、隔離、すなわち、人と人とが接しない、ということです。隔離が物理的な次元にとどまっているならいざ知らず、心の問題にも及ぶと、非常に残念です。キリストが救い主として、自らの受難、十字架上の死、復活を通して、民との絆、人と人との絆を取り戻してくださいました。イエス様は最後の晩餐の時、「この杯は私の血によって立てられる新しい契約である」とおっしゃいました。その時、弟子たちは、その意味するところが分からなかった。しかし、イエスの受難、十字架上の死、復活を通して、つまり、主の過越を通して、真にその意味を理解しました。新しい契りで、神と人、そして、人と人を結んでくださったということです。イエス・キリストの復活の命を生きるキリスト者の信仰生活において、この絆は非常に重要です。神との絆、そして、キリスト者同士の絆、その二つの絆がなければ、主の十字架を人々に告げ知らせることはできません。また、繰り言になりますが、十字架の縦には神との、そして、十字架の横には人々とのつながりを示していると言われます。言葉をかえていうならば、神への愛、人々への愛です。また、だからこそ、私たちの使命である福音宣教のためには、この二つの絆は欠かせないということです。
復活されたイエス様は、マグダラのマリアに「私の『兄弟たち』のところに行って言いなさい」、とお命じになりました。私たちはイエス様の十字架によって兄弟姉妹とされた、ということがイエス様ご自身の言葉によって宣言されています。「私の兄弟たちのところに行って」です。私たちは日々、「天におられる私たちの父よ」と祈りをささげています。「天におられる私たちの父よ」、と唱える「神の家族」ということです。地縁や血縁によらない結びつき、絆。イエス様を通して新たに結ばれた契り、契約によるものです。
イエス様を通して神と人との間に結ばれた新しい契約、旧約に代わる新しい契約。これによって新しい神の民が誕生しました。キリストを長子とする神の家族の誕生です。ミサの中では、最後の晩餐のイエス様の言葉が司祭を通して繰り返されます。「皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流される罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」。そしてさらに、「これを記念として行いなさい」と続きます。新しい神の民として、契約祭儀であるミサをともにささげることができるように、と祈るばかりです。
神の民の一員として、神の家族の一員として、福音宣教の使命を果たすようにと召されたのが私たちキリスト者です。そういう意味で、私たちの召命は、個人的なものではなく、共同体的なものなのです。私たちは神の民としてキリストが十字架上で示された神の愛をこれからも多くの人々に告げ知らせていきたいと思います。その恵みが今日の復活を祝うこのミサを通して、さらに与えられますように祈ります。

2020年4月11日(土)聖土曜日 復活の聖なる徹夜祭ミサ
司式 ラファエル梅村昌弘 司教
説教要旨 鈴木真 主任司祭

みなさん、ご復活おめでとうございます。キリストの復活、それはある意味、体験であり、しるしである、といえると思います。それも私たち個人の体験であり、共同体の体験でもある。そして、私たち一人ひとりの個人的しるしであり、共同体としてのしるしでもある。キリストがいつもともにいてくださり、キリストを通して、いつも神の働きがある。その体験であり、しるしであると言えますし、それこそがキリストの復活であるといって良いでしょう。違う言い方をするならば、神さまの働きかけのしるしといっても良いかもしれません。神が確かに働かれている。そのことに私たちが気づく時、このキリストの復活そのものが体験となり、しるしとなる、といえるのではないでしょうか。
私たちキリスト者の信仰の土台に、「呼ばれる」という要素があります。何かの折によく引き合いに出すことではありますが、「教会」と訳された元のギリシア語「エクレシア」とは、「呼ばれた者の集まり」という意味だそうです。いつも神さまの方から、しかも、一回限りではなく、私たちが生きている限り「呼ばれ」続けている。それが、我々キリスト者にとっては、キリストという存在を通して、まさに、それがキリストの復活であると言えるでしょう。
今年は、このような状況の中で、何となく心から「ご復活おめでとう」と言えない、そんな気持ちになれない部分もありますが、こんな時にさえ、あるいは、こんな時だからこそ、神さまの働きを随所に感じられることも少なくありません。まずは、医療従事者の方々に、頭が下がります。医療に従事されているからこそ感染してしまった方も少なくない。でも、そんな献身的な働きとは裏腹に、偏見や差別を受けられているという話を聞いて悲しく思います。医療に従事し、必死に働いている方々の働きに報いがありますように、そして、また、その方々の健康を何よりも心から祈りたいと思います。
神さまの働きというものを、身近なところでも感じることがありました。実は、3月半ば、ある方に病床で洗礼を頼まれました。ところが、決めておいた日の二日前に、その病院では面会が禁止となってしまいました。どうしたものかと思っていたところ、周りの人たちが機転を利かせてくれて病院の裏手にある小さな公園で行うことになり、ご本人も車椅子でいらっしゃいました。幸い、その日は春の日差しが温かくて天気も良かったので、私も司祭になって初めて、露天での洗礼式を行いました。少人数で集まったのですが、何とも心温まる洗礼式となりました。
今週は聖香油のミサを元々雪ノ下教会で行う予定でありましたが、それも叶わず、ここ山手教会で行われました。それに伴って、用意してあった昼食用のサンドイッチが大量に余ってしまうという事態になりました。幸い、翌日は木曜パトロールでしたので、路上生活者の方々に配らせていただき、大変喜んでいただきました。もちろん、これも、人の目から見たら、偶然。でも、我々信仰者には、それは全て必然です。そんな中に神さまの働きがある。とはいえ、本来ならば、この復活徹夜祭の夜に、長い間、洗礼の準備を積んできた入信志願者の方々に入信の秘跡が行われないことは非常に残念です。本当に一日も早く志願者の方々が入信の秘跡に与ることができるよう祈りたいと思いますし、その方々と、そのご家族の上に豊かな祝福があるよう心からお祈りいたします。

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